教会に献本をいただいた。「大洋を行く宣教 ー パプアニューギニアでの聖書翻訳」、篠原敦子著(イーグレープ社)

当時わずか2千人しか話す人のいない「アタ語」の聖書翻訳に従事された橋本一雄・千代子宣教師ご夫妻と協力者たち(久米のぞみ宣教師他)の25年の歳月を、著者の篠原敦子氏が聞き取った記録です。

翻訳と言っても私たちが学校で英語を学ぶように、教科書があり、辞書や文法書があり、教えてくれる先生がいるような環境とは全然違います。文字も辞書も文法書も何もない状況で、発話者の音声を聞き取り、それを自分で発音できるようにするところから始まります。文字表記を決めて、辞書を作り、文法書を作り、現地の協力者を得て、得た言語知識を確認しながら一歩一歩進めます。そして、これら一連の作業は冷暖房完備し、快適なネット環境が備えられた書斎でするのではありません。

翻訳宣教師の方々と協力者の労苦(マラリヤ、毒蛇、強盗、過労、ストレス、挫折、死別、友情など)は抜粋では伝わらないと思いますので、実際にこの本を手にして読んでいただければと思います。ここでは翻訳宣教師の訓練、翻訳の実際について、一部を抜粋します。興味を覚えたら、ぜひ実際の本をお読みください。全部抜粋したくなります。^_^;/

様々な協力団体との連携で進める

翻訳宣教師になるためには様々な準備

神学校で聖書の原語(ヘブル語・ギリシャ語)などを学ぶ(3年,p15)、言語学の訓練のためにテキサス州ダラスで学び(1年9ヶ月,p20)、村の生活に順応するためのジャングル・キャンプ(4ヶ月,p21)をします。

言語学の訓練:音を聞き取り、発話できるように

地球上の人間から発せられる音は、「国際音声記号」が網羅している。記号の形は串刺しの饅頭や、猫がしっぽを内向きに丸めたり、というもので、記号を見て発話できるようになるには、唇、前歯、舌の付け根、喉の動き、息の出し方など、テキストにある人間の顔の横断面を見てひたすら練習する。・・講師の発する様々な音を聞き取り、自分で声に出し、記号とテクニカルネームを探す。喉は詰まる。咳込む、鼻先は痛くなる、顔だけがゆがんで音は出ない。(p115)

ジャングル・キャンプ

タロイモとブッシュナイフを持たされてのジャングル生活の訓練、遠泳の訓練(川に橋があっても壊れることがあるので)。ウィクリフの宣教師を受け入れるのは、現地で活動する姉妹団体、SILである。(p26)

パプアニューギニアのSILの本拠地

ウカルンパの広大な敷地が、パプアニューギニアのSILの本拠地である。標高千六百メートルの高地なので、マラリヤの心配がない。・・大きな発電機があり、川の水を引いている。様々な資料を調べ、トレーニングセンターでは聖書翻訳の技術を学び、コンピューター入力するのが可能な環境がある。(p46)

ウカルンパセンターについて今一度、触れておきたい。翻訳者の他、聖書学、翻訳理論を講義する教師たちを含め、医療、インフラ整備、コンピューター技師、車の整備士、宣教師の子女の教育、パイロット等、ウカルンパで働く人々は、すべて聖書翻訳のためのチームである。彼らもまた宣教師だ。(p78)

(引用者森本の追加説明)

パプアニューギニアには800以上の言語があり、SILとウィクリフ聖書翻訳協会は、様々な国から多くの宣教師たちがチームを組んでいくつの言語の聖書翻訳に取り組んでいます。そのために様々な物資が必要で、運搬のためにセスナ機が使われています。以前読んだ宣教師の活動報告に、セスナ機のパイロットは「超絶技巧」的な腕前のようです。

ひとつの言語の聖書翻訳には、神学校の教師、言語学の専門家と訓練指導員、飛行機のパイロット・整備士など様々な人々の協力が必要であり、その上で20年、30年の年月を費やします。その他、教育宣教師という翻訳宣教師の子どもたちの教育(母国語での学習支援など)のために遣わされる宣教師たちもいます。

パプアニューギニアの言語事情は、Global News View (GNV)という大阪大学を拠点とするメディア研究機関の以下のページが詳しい。

言語多様性の謎:パプアニューギニア

SILのセスナ機に関する情報はココ

私のもうひとつのブログのカテゴリー「Hebrew, Greek」に「SIL」が度々出てきます。

アタ語を話す人々共に生活する

電気もガスも水道をない奥地で25年間過ごした。ほとんど赤道直下。アタ語の話者は当時2千人程度。2千人のために聖書を翻訳することにどれだけ意味があるだろうか。(p8)

かつての宗主国から押しつけられた列強の公用語を話せる人口は5割にも満たない。旧植民地の人々が話すのは村の母語である。そのほとんどが文字を持たない。そのような少数民族はこの世に数え切れない。文字の無い文化の多くは霧のようになくなってゆく。(p8)
識字率の低さは深刻だ。国内で話される八百余りの民族語を把握するのは政府にとっては至難のわざだ。ウィクリフの宣教師は言語学の訓練を受け、村に遣わされる。SILがパプアニューギニアの政府と協力し、識字教育、学校教育の分野で役割を担っているのはそのような理由からである。(p34)

聖書翻訳以前の準備(文化を知る)

村の母語に「聖書を翻訳する」と言うものの、それは想像を絶する難事業であった。ウィクリフ聖書翻訳協会の宣教師たちは、まず言語学訓練を受け、少数民族と共に暮らし、文化人類学の論考を起こす。そして無文字の民族語に文字を定着させる。少数民族は自分たちの文化には、意味も価値も無いと思いがちだ。彼らが伝承の祭り、音楽、踊りに誇りを持ち、次世代に継ぐのを助けることが聖書翻訳の手前にある。ウィクリフの定めた宣教の大前提だ。

地図を作る。村の気候、人口、暮らしや政(まつりごと)を調査する。それらをアタの文人類学の論文にまとめる。また、アタ語の中にも方言がある。各村々に赴き、調べ、方言調査の論文をまとめる。聖書翻訳宣教の始まりである。(p31)

識字教育の結果

橋本宣教師夫妻が赴任した頃、アタ語を話すのは15の村の集合体で、およそ2千人だった。アタ語の話者が4千人に膨れ上がったのは、宣教が進み識字教育の充実し始めた2000年代のことである。(p26)

無文字社会における辞書作りから始める

生活の全てが言語収集の実践である。コトバの音を聞き取り、音声記号に転写する。・・無文字社会における辞書作りの一歩だ。次に音声記号からそれにふさわしいアルファベット文字を制定し、話し言葉の文法を解いてゆく。(p35)

無文字社会に足を踏み入れた翻訳宣教師は、現地の言葉を聞き取り、音声記号を当て嵌める。「村に入ってからの1、2ヶ月、死ぬ気でやること、鬼のようにやること」とテキストにある。(p115)

働きの様子

協力者が与えられて

ワシラオ村では外国人がアタ語を習い、村人と話すなど前代未聞の出来事だった。夜の焚き火を囲んで一雄が村のファミリーと話し始めると、黒山の人だかりが出来た。赴任して2年もすると一雄はアタ語を流暢に話すようになり、一家は村に馴染んだ。文法分析に協力する言語ヘルパーが一人、また一人と備えられた。(p40)

読み書きを教えるために

一雄は小学校準備校(以下、プレスクール)を作る必要を強く感じていた。就学前にアタ語の読み書きを教えるプレスクール(現地の発音では「プリスクール」)である。そこで教える中心人物はカバ以外、考えられない。一雄が聖書翻訳のノウハウを仕込み、自分の片腕にしたいと考えたもうひとりは、X村のロビンだった。(p68)

他の言語の翻訳宣教師たちと共に

(ウカルンパ?の)図書室の近くに「キューピクル」という、蜂の巣の穴が横並びしているようなプレハブが数棟ある。翻訳作業用の場所だ。二畳ぐらいのスペースである。机上にはコンピューター、ノート、椅子は3つ。大きな窓と資料を置く棚だけがある。棚に手を伸ばせば日本語、英語、ピジン語、ギリシャ語、ヘブライ語の聖書に届く。このスペースが翻訳作業に最も集中できる。一棟に6室あり、未使用の部屋には「何年、何月から何月まで使用の予定」と張り紙してある。翻訳宣教師は数ヶ月間、村に入り、言語資料、下訳などを蓄えてここに戻り、一語ずつ一節ずつ、コツコツと入力し、それから第二稿、第三稿と改訂してゆく。(p73)

思わぬ出来事

大水が出た。降り止まない雨で畑が全滅した。車は浸水し、動かない。川が増水するとワシラオ村は陸の孤島だった。一雄は村の男たち数名と、食料を探しに出かけて行った。・・一雄の一行は雨の中、3、4時間歩いて川を下った。仲間の腰に命綱のロープを括り付け、増水した川辺の草木に掴まって進むのは、ジャングルキャンプの訓練が役立った。(p98)

家族の身が心配なら、宣教師は単身に限ると思われるでしょう。しかし、未開の地で働く一家は共闘の仲間になります。まず家族との話し合いを優先する。仕事の支えは信仰です。信仰の基は愛情です。他に頼れる者のない土地で、愛情の単位はまず家族なのです。(p99)

挫折、しかし神の働きは途切れることなく

夫はブルドーザーのように翻訳、識字教育の両刀使いとして、前進してゆきました。(p101)

(橋本一雄宣教師は三期目の任期を終えて帰国時に、46歳で脳溢血のため召されました。その後、妻千代子宣教師は、)再び翻訳のために村に戻ってゆき、関係者を驚かせた。言語学の才に乏しく宣教師には適さないものが多すぎる、と太鼓判を押された女性なのだ。(p107)

千代子が夫の死後の整理に追われている間、道の曲がり角にあって、久米のぞみは日々祈り、アタの村と無線で交信した。そして、ウカルンパにやって来たロビンと膝を詰めて相談した。アタ語の翻訳は止めない。橋本一雄宣教師の後を継いで聖書翻訳を続けるのを、あなたに助けて貰えるだろうか。この時点で、のぞみは自分の言語学の資質が神の手に掴まれ、識字教育に加えて翻訳の仕事を担うよう、導かれているように感じていた。その上で助力を求めた。ロビンの立場は無報酬だ。聖書翻訳に邁進するには、一族からの理解、助けが欠かせない。(p111)

村の人々の賛美

橋本千代子宣教師がワシラオ村に戻った時、それはキリストのエルサレム入城の場面と重なるようでした。村の入口から橋本家までは約1キロあります。道の両脇に村人たちがびっしり並んでいました。千代子さんの歩かれる前にハイビスカスなど、色鮮やかな花々が一輪一輪敷かれてゆきます。そして、村の人々の命の象徴であるタロイモのサッカが置かれました。サッカとはイモの上3センチほどを残して切った茎のことで、それを植えるとまた一つのタロイモが出来る。村の家に代々伝わる食べつないでゆくための言わば「命」そのものなのだ。・・その晩は、村の人々が橋本宣教師の家の前に集まったという。千代子とのぞみが床につくと、アタ語の賛美歌が聞こえてきた。ワシラオ村、S村、M村、X村、それぞれの村の人々の讃美歌が夜空に響いた。それらは夜が白々と明けるまで続いた。(p114)

出版に向けて

ヴィレッジチェッキング(村人との審査)

無文字社会ではきちんと訳されているかどうか、判定出来る第三者がこの世にいない。だからまず村で審査するのです。下訳した聖句を、村の人たちに耳だけで聞いてもらいます。巡回牧師がビジン語(英語と共に公用語として用いられている,p34)でメッセージしても、ほとんどの人には意味がわかりません。そのような人たちに向けてアタ語に翻訳した聖書箇所を、1章ごとに読んでゆき、間違った所やわからなかった所を尋ね、修正してゆく、それが「ヴィレッジ・チェッキング(村人との審査)」です。方言のある村でも理解してもらえるかどうか、ノートを持って出かけて行きました。(p124)

歳月(子どもの成長、村人との交わり)

ウカルンパで勉強していた千代子さんの子供たち(働きを始めた当初は3歳と1歳,p31)は、米国の大学へと巣立って行きました。以来、宣教師体験旅行者のお世話をしたり、コンピューター入力、英語への逆訳、SILとのやりとり等、マラリヤでふらついている時以外、千代子さんの働きは地道なものでした。ウカルンパにいる間は宣教師の家々に、おかずを差し入れていたようです。しかし、聖句を味わい、祈る時間を何より大切にしていました。翻訳面では器用ではなかったけれど、彼女がいなければ村人は協力しかなったでしょう。あの人を見ていると助けたくなるのです。(p148)

歳月(宣教師の体を蝕む)

2008年10月、韓国の宣教師が最後のコンサルタント審査を行った。折しも千代子の母が重篤だという連絡が入った。アタ語の審査全てが終わるまでこらえていたかのように病状が悪化した。千代子は11月に慌ただしく帰国した。2週間看病して最後を看取ることが出来た。しかし、マラリヤ薬の副作用でドクターストップがかかり、千代子は以降、アタの地を踏むことはなかった。・・のぞみ(久米のぞみ宣教師)の孤軍奮闘が始まった。(p160)

さまざまな協力者、仕事

タイプセットとはいわゆる組み版のことで、絵、写真ページの割り付けを含む全体構成である。ただしタイプセットの前に、全新約聖書と旧約の創世記、ヨナ書の組み合わせが待っている。

2009年、3月から4月にかけて、のぞみ、ウェンガ、他の翻訳協力者とその息子がウカルンパで額を付き合わせ、膨大な量を読み合わせた。コンピューターに入力した本文を読み合わせ、訂正を加えて精度を上げてゆく。そして、データ化したものをタイプセットの担当者に渡す。絵、写真はSILのタイプセット部門の認可された物を使う。その後は、印刷、販売の相談、献書式の準備に追われる。

ワシラオ村の雨水タンクは修理してもまた錆びて穴が空く、マラリヤは再発する。様々な人が助けるとは言うものの、のぞみはよく生きているな、というのが村人の実感だった。(p160)

25年かけて翻訳した聖書を200円で販売する

アタ語の聖書印刷は700冊。印刷にかかるのは77万円。韓国製の紙は最も質が良く、印刷代も安い。カラーの写真、イラスト、地図の入った聖書の印刷原価は1冊千円。アタの人々へは200円(5キナ)で売られる。(p160)

神の手に守られて・・慎ましい喜びに満たされる

(2011年)韓国の印刷所から、完成した新約聖書(創世記・ヨナ書付)が1冊、日本にいるのぞみの手元に届いた。・・のぞみは玉手箱を手にしたような思いに囚われ、すぐに中身を開く事が出来なかった。自分は長い間、神の手の内に守られてきた。慎ましい喜びに満たされてゆく。・・『味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ 主に身を避ける人は。』(詩篇34篇8節)(p163)